飛ッ石~Hisseki

日常から生まれた筆跡を、飛び石のように置いて歩いていきます。目的地は不明。

ある大物女優との出会いを通して学んだこと③

その後も、女優Nさんと行動する機会は多かった。自分にとっては未知の仕事ばかり。

テレビにしろ情報誌にしろ、個別の取材が多かったが、大勢の記者が一気に集まる記者会見もあった。

記者会見は、テレビ局の女性アナウンサーが司会を務め、スポンサーのひとつである大手旅行会社の担当者がそのミュージカルの魅力を話したあと、Nさんが会場に登場するという流れだった。私はあくまでもNさんのサポート役。

ところが、当日、テレビ局に入り打ち合わせをしているときに、私も記者会見に参加することが決定してしまった。劇団側を代表して、ミュージカルの魅力を伝える役だ。

常に丸腰でフリースタイルな感じで現場に飛び込み続けていた私に、こういう予測できない事態が降りかかることは多々あったが、今回はかなりハードルが高かった。記者会見まで1時間もない。それまでにしゃべることをまとめなくてはならない。

「大丈夫ですよ。僕もなにしゃべればいいかよく分かってないですから(笑)」と言うのは、スポンサー側の担当者の方。

彼は私のひとつ歳上。歳はあまり変わらなかったが、もともと芸能プロダクションにいてその旅行会社に引き抜かれたというから、経歴としては私と比べものにならないほどのエリートなわけだ。

つまり、その言葉で私が安心することはなかった。彼は私の緊張をほぐそうとしてくれていたんだろうが。

私はとにかく手書きで原稿を作成して、できる限りのことはやろうと決めた。

記者会見が始まり、私は彼と一緒に席に着く。目の前にはかなりの数の記者が並んでいる。

司会の女性アナウンサーが、まずスポンサー側の担当者を紹介し、彼がしゃべり始めた。

何も見ず、頭の中にしっかり入っている言葉を淀みなくペラペラと吐き出す。話もすごくまとまっている。

「大丈夫ですよ。僕もなにしゃべればいいかよく分かってないですから(笑)」という、さっきの言葉はなんなんだ?あ?ふざけんな!と心の中で思った。これは罠だ!ハメられた!

次に私の番が回ってくる。

私はさっき書いたばかりの手書きの原稿を手元に置いて、その大半は目線を下にして原稿を読みながらしゃべることとなった。

この差。負け犬だ。そう思いながら話を終えた。

その後は、予定通りNさんが登場し、撮影と質問の時間を経て、記者会見は無事に終わった。

終わってからわざわざ名刺を渡しに来てくれた記者の方とかもいて、まぁなんとか乗り切った感はあったが、周りがみんなプロで自分だけが場違いだった気がして、少し落ち込んだ。

帰りにマネージャーさんと合流したとき、Nさんがマネージャーさんに向けてこう言った。

「⚪︎⚪︎くん、今日がんばってたわよ(笑)。ちょっと笑っちゃったけど」

不完全燃焼でモヤモヤしていた私の内心を読み取られた気がしたが、その言葉に救われた。この人が少しだけでも認めてくれるならまぁオッケーかなと思えた。


プロモーションで地方を回っている間にも、もちろん本来の制作の仕事は常にしていた。主催者のテレビ局や新聞社、プロデューサー、舞台監督、音響、照明、映像制作会社、デザイナー、劇団員などなどのハブとなって細かい調整をし続けた。あちこちから厳しい言葉を浴びながらも、もう自分がいないと絶対に回らないというところまで来ているという実感はあった。それが唯一の喜びだったかもしれない。

全国公演が始まった。ここからもまた大変だ。トラブルも多かった。関わっている人たちすべてがプロだからこそ、そのわがままも聞かなければならない。特に金銭が関わる部分はシビアだ。しかし、すべてを許容してしまえば公演は回らなくなる。特に、舞監と制作がぶつかるのは伝統だと聞いていた。だから相手がプロであっても、こちらの主張を通さなければならないときもある。

「舞台を一緒に作り上げる仲間だ」という綺麗事だけでは済まない事態も起こる。スタッフのボイコットに近いような交渉もあった。

そんななか、地方から地方へ移動しながら、宿泊、交通の管理をする。公演当日は、朝は誰よりも早く会場入りして、夜は誰よりも遅く帰らなければならない。

朝一番の楽屋の振り分けから始まって、リハーサル前に舞台上のキャストのみなさんに向けてマイクで挨拶。舞台裏の導線や、どのへんのゾーンの客席が埋まっているかなどを説明する。そこからは会場側、主催者側のスタッフと連携して開演準備をしていく。小道具や弁当の手配、受付や売店の設営、タレントさんのお出迎えなどなど。Nさんが到着して、荷物を持って楽屋まで案内するだけでもスムーズにやらなければというプレッシャーがかかる。他にもやることは尽きない。

開場してもトラブルは起きる。開演直前のリハーサル中に、スタッフがお客さんを客席に通してしまったり。このときは舞監にこっぴどく怒られた。お客さんからの差し入れを捌いたり、タレントを訪ねてくるなにやらVIPな方々をエスコートしたりと、あちこちとにかく走り回る。

やっと少し落ち着けるのは開演してからだ。チケットの管理をしながら、ようやく弁当を食べられる。

公演が終われば、今度は舞台のバラシが始まる。アルバイトを集合させるのがたった1分遅れただけでまた舞監から激怒される。

疲労困憊でホテルに帰る。帰ってからも打ち合わせは残っている。隣の部屋からは演技の練習の声が聞こえてくる。みんな休んでいない。

もちろん、地方を回る楽しみもあった。みんな時間がない中、ご当地グルメだけは食べようという意識があったのだ。すべての人が疲れた表情をしていたけど、充実感に満ちた空気だった。

それから、これはまた別の次元の話だが、こういう大きな流れに乗っかって無心で動いていると、同じようなスピード感で動いている別の流れにいる人たちと目が合うようになる。すごく抽象的な表現だが、それによって私は自分の成長を測っていたように思う。



つづく





完璧にコントロールされた暴走

都内に出るときにいつも乗り換える駅があって、その改札の前には存在感のあるデジタルサイネージが設置されている。

先日、そのデジタルサイネージの前を通り過ぎるとき、画面に「自衛官募集」という文字がドカンと映し出された。この5文字は、まるで意思を持つかのように私の目に飛び込んできた。暑さもあったのだろうが、軽くめまいがした。

もちろん今までも自衛官募集の広告というものを目にする機会は普通にあったわけだが、今の時期にこういうものを見るとやっぱり重みが違う。

しかも、デジタルサイネージに映し出される一般の色鮮やかな広告の連続の中に、この「自衛官募集」という無機質な広告が挟まれるインパクトはなかなかのものだ。

表現しにくいが、「広告」という機能だけではなく、なにか他に強いメッセージを訴えかけているような気さえしてくる。少しゾッとしたのだ。

安保法案をめぐって様々な意見が飛び交っているが、これの本当の意味、本当の狙いがなんなのか、なかなか理解するのは難しい。

なぜなら、「戦争できる国にしたい」とか「戦争できる国にしたくない」というような単純なことではないからだ。そこにくっついてくる様々な要素を考えなければ、正しい判断などできない。

これは、戦後70年の日本のすべてを知り、すべてを語らなくてはならなくなるほど、かなり複雑な問題だと思うのだ。私にはとうてい判断のつかない問題だが、無関心ではいられない。

SEALDsなども登場している。実際はどのようなバックグラウンドを持っている学生たちなのかは分からないし、すでに大人の事情に巻き込まれているかもしれない。安保法案反対デモやカウンターデモがただのプロレスごっこだという見方もある。どこまでがマッチポンプなのか分からない。でも、参加している平成生まれの若い世代の一人ひとりが、何かしら考えて行動していることには違いないのだ。折を見て、国会前抗議行動というものを見学してみたいとも思う。

私自身、政治に詳しいわけでもないし、国際情勢に精通しているわけでもない。しかしながら、興味をもって探ることはできる。

見えてくるのは、やっぱりアメリカというご主人様の存在だ。GHQに押しつけられた憲法を変える。もしくは解釈を変える。それはいいが、その新しい憲法は果たして日本人による日本人のための憲法なのか。そうはならない。結局は憲法の改正さえアメリカの意図なのだと考えると、これはもう戦後レジームからの脱却とか日本の独立とはほど遠い道のりを歩んでいるということになる。

中国の脅威が迫っているとか、日本の領土問題とか、集団的自衛権の行使にはそういう話も絡んでいるんだろうが、それはそれでじゃあ米中共闘路線はなんなの?アメリカは守ってくれるの?という矛盾も生じるわけで、今の本筋はそこだとは思えない。むしろ、日本がアメリカの抱える問題を解決するために利用されるだけなんではないかという疑問を当たり前のようにもってしまう。

単なるアメリカの意向で、アメリカ政府がアメリカ国民の世論に批判されないように、自国民ではなく同盟国日本の自衛隊を戦地に送り込むという目的だけのための動きなんだとしたら、こんなにバカらしいことはない。

戦争に反対とか、徴兵制に反対とか、そういうことではなくて、問題は手段ではなく目的の部分。戦争するんだとしたら、それがなんのための戦争なのかだ。

戦争できる国にする?いや、これは逆なのかもしれないのだ。日本は決して日本のために戦争できない国になるかもしれない。

三島由紀夫は、1970年に市ヶ谷駐屯地で演説した後に割腹したが、その演説の中でこう言っている。

「諸君は永久にだねぇ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ」

45年も前の話だ。これが現実になろうとしている。確かに三島は憲法改正自衛隊の国軍化を訴えている。しかし、それはあくまでも「日本人による日本のための改革」を求めたわけで、「アメリカの軍隊として戦争するための改革」ではないはずだ。

私は人種に対する偏見は特に持っていないし、アメリカも嫌いじゃない。アメリカの音楽も好きだし、アメリカの映画も好きだ。ノリも好きだ。

ただ、本質的にアメリカというものが一体なんなのか、それがはっきり分からないせいで複雑な気持ちになる。もはやアメリカは国家じゃないという話もよく聞く。一部の大資本家や大企業などが国を牛耳っている。さらに言えば、日本の経済を握っているのも彼らだ。自分の目で見たわけではないから、これは憶測に過ぎないのだが、陰謀論のような極端な絵空事でもないのは確かだ。

いわゆる新自由主義、グローバル主義というものについても真剣に考えなければいけない時期に来ていると思う。

ベンチャーに代表されるような日本の先鋭的な企業では「グローバル」というのは最もアツいキーワードのひとつだ。だけど、これが政治の話になってくると違う側面を見せる。日本の文化の色を薄めることなく、むしろ強い原色の日本のカラーをもって世界に展開するというスタンスでなければ、飲み込まれて終わるだけだ。

安保法案だけではなく、その裏では様々な閣議決定がなされ、様々な法案が通っているようだ。ちょっと異常なほどに加速しているように思える。移民問題。人種差別問題。政治家たちはいつだって含みをもたせた難しい言葉で理論武装しているが、それを市民の言葉に翻訳しようと努力している人たちもいる。少し考えれば分かる矛盾。少し疑えば見えてくるふわっとした真実。

少しでいいのだ。決定的な瞬間が来たときに、何も知らなかったと後悔したくはない。それじゃあやっぱりつまらない。

オリンピックというビッグイベントを控えた日本。今の日本があるひとつの方向に向かってなりふりかまわず暴走しかけている気がしてならない。コントロールを失った純粋な暴走ならばまだましなのだが、これは完璧にコントロールされた暴走に違いない。



PEACE‼︎


ある大物女優との出会いを通して学んだこと②

ミュージカルの全国公演に向けてのプロモーションで、タレントを連れて地方に行く機会が多くなった。ビジネスマナーも業界のこともよく分からないままに、なんとかミッションを遂行していた。

 

女優Nさんを連れて地方のテレビ局に行ったときのことだ。今回はマネージャーさんの同行もない。空港からタクシーでテレビ局に向かう。到着すると、入り口で何名かの出迎えがあった。私はタクシー代を払い、Nさんと一緒に入り口に向かう。

 

先方の担当者が笑顔で挨拶してくる。私も名乗る。そして、微妙な間があったあとに、Nさんも挨拶していた。

 

無事に収録が終わって、食事をとることに。私とNさんが並んで座り、向かい側に担当者の方がふたり。そのうちのひとりはどうやらかなりのNさんファンだったらしく、話は盛り上がっていた。

 

「いやー、昔から大ファンなので、すごく緊張しちゃいます!」

 

私は、ふむふむ、と思いながら適度に会話しつつ食事を楽しんでいた。するとNさんが私を見ながら、担当者の方に向かってこう言う。

 

「でも、○○くんはまったくわたしに緊張しないのよね・・・」

 

私は、「いやいや、そんなことないですよぉ」と適当に返しておいたが、実際、あまり緊張していなかった。なんというか、こういうテレビ業界の人たちと同じテーブルで食事していること自体に現実感がなかったのだ。大女優が隣にいても、私はズブの素人なわけだから、もはやあがいてもしょうがない、ありのままでいいっしょ、みたいな感覚だった。

 

帰りのタクシーで、仕事の達成感を味わっていると、後部座席からただならぬ空気が・・・。

 

「○○くんさ・・・」

 

やばい。やっぱりなんかやらかしちゃってたか?

 

「テレビ局着いたとき、ふつうはあなたがわたしのことを紹介するよね?」

 

その通りだ。

 

「○○くんは、いつもテンポがひとつ遅いの。本来はわたしのひとつ先を行ってなきゃいけないのよ。わたしは気づくのが早いけど、その前にいろいろ気づかなきゃ。」

 

私は、「はい」とだけ答える。それ以降、タクシーは沈黙を乗せたまま空港へと走った。

 

そういうことか・・・。食事していたときに私が流してしまっていた言葉。あれは、私の緊張感のなさを指摘していたのか。そのとき、初めて少しだけ自分の立場が分かったような気がした。この人に恥をかかせていた自分に気づいた。

 

それ以降も、私はNさんや売れっ子の女芸人の方などと一緒に地方へ行き、その度にいろいろ学んでいった。マネージャーさんや付き人さんが同行しない以上、地方に行っている間は自分がその役割も兼任しなければいけないのだ。失敗も多かった。

 

劇団の看板女優と女芸人Wさんのふたりを連れてプロモーションに行ったときも、大きな失敗をした。看板女優はそのミュージカルの主演。そしてWさんはミュージカル初挑戦。しかし、知名度は圧倒的にWさんの方が高い。そのへんに意識を向けることができなかったのだ。取材でも収録でも、どうしてもWさんの方に焦点が当たってしまう。自然と私もその流れに身をまかせてしまい、看板女優をたてることができなかった。さらに、それにまったく気づかず、仕事後に指摘されてしまったのだ。

 

正直、経験の浅い私にとってはハードルの高いことばかりだった。しかし、失敗から学ぶことは許されていた。情けない話だが、失敗しても最終的には周りの力で前向きにさせてもらっていたように思う。劇団員やタレントの方たちは常にエネルギッシュで、誰も立ち止まることがなかった。だから、自分もそういう姿勢になっていたのだろう。

 

Nさんももちろんエネルギッシュだった。あるとき、私はNさんと朝から飛行機に乗って九州に行って、時間がカツカツの中で取材と収録を数か所を回り、夜にはもう動けないくらい疲れ切っていた。ようやく最後の収録が終わって一息ついていると、Nさんが「ちょっとディナーに招待していただいたから、今日はここで!」と言っている。まじか。まだそんなエネルギーが残っているとは。マネージャーさんに報告の電話をする。なんか飲みにいくみたいですと。

 

私は宿泊する予定だったホテルへ入り、軽く食事をとって、ベッドに倒れ込んだ。そしてそのまま寝てしまった。

 

翌日の朝、ホテルの1階の一室へ向かった。そこで取材の予定だったのだ。前日の疲れを引きずったまま部屋に入ると、すでに準備万端のNさんがスタッフの方と談笑している。この人、昨日ちゃんと寝たんだろうか。

 

取材を終え、飛行機に乗って、東京に着く。空港でようやくマネージャーさんにバトンタッチ。一応マネージャーさんに聞いてみる。

 

「今日もこのあとNさんお仕事あるんですか?」

 

「あぁ、夜ありますよ。その前にプライベートの予定もあるみたいです(笑)」

 

私はNさんの言葉を思い出していた。「わたしのひとつ先を行ってなきゃ」という言葉。

 

無理です・・・。

 

 

 

 

つづく

 

 

ある大物女優との出会いを通して学んだこと①

私があるミュージカル劇団の制作という仕事に就いていた頃の話だ。入社する前は、「制作」というからには、なにかクリエイティブな仕事なんだろうなと思っていた。確かに、そういう面はあったが、基本的には、社長やプロデューサーの下で、調整役から雑用まで、あらゆる裏方の業務をやる感じだった。しかもほぼひとりで・・・。

 

一番最初の仕事は、あるテーマパークで劇団がショーをやっている裏で、そのテーマパーク内にカフェバーのようなものを立ち上げるというものだった。え・・・と思ったが、まぁ仕事なので。店を管理するのは自分で、元劇団員で今は役者をやっているという方が主に接客を手伝ってくれて、あとは六本木から超絶イケメンのハーフのバーテンダーが呼ばれバーカウンターの中に入った。

 

経営知識もないし、接客経験さえない私だったが、なんとか日々の業務をこなしていた。その大物女優に初めて会ったのはその頃のことだ。

 

カフェバーにはステージがあって、そのテーマパークに客がドカンと来場する連休などは、芸能人がショーをやるイベントが開催される期間になっていた。その日は、世界的に有名な日本人女性イリュージョニストがショーをやる日だった。

 

余談だが、そのイリュージョニストは、私のような者がすれ違うことさえ許されないお方だった(笑)

実際にそういうルールがあるのだ。夜にイベントが終わって、カフェバーの店内でひとりで後片付けをしていると、SPのような男が近づいてきてこう言う。

 

「申し訳ございませんが、○○が控室を出てここを通るので、見えない位置にいてもらっていいですか?背中を向けていただくだけでもいいので」

 

ビックリしました。もう、それ神じゃないですか。もしくは殿様?いや、姫か。私のような市民はプライベートで目を合わせることを禁じられるんですから。ただ、嫌な気持ちにはまったくならなかった。そのSPの方の雰囲気からか、すごく自然に受け入れることができたのだ。次元が違うと、そういうもんなんだなぁと。逆に、マネージャーも連れず近づいてきて、労いの言葉をくれた大物芸能人もいらっしゃった。そこにもまた実はひとつのストーリがあったんだけど、別の機会にでも書こう。

 

話を戻すと、そのイベントの日に、社長にこう言われた。

「今日、女優のNさんが来るから気をつけといて」

 

なにを気をつければいいのか分からなかったけど、とりあえず言われた通り、いい感じの場所に席を確保しておいた。

 

席は売り切れ。会場には次々に客が押し寄せる。そんな中、私はひとりで入口のレジで、チケットの確認と当日受付のお金のやりとりをしていた。席は自由だったので、「空いている席にどうぞ」といった感じで、なんとか捌いていた。そこに女優Nは現れた。

 

「お待ちしておりました。席は確保しておきました。あちらに案内の者がいるので・・・」

と言いかけたときに、食い気味に、「案内してもらえるかしら」と言われた。

 

んー。今ひとりでお客さん捌いてるんだけどなぁ・・・と思いつつ、断ることはできないので、他の客を待たせてNさんを席に案内した。それが初めての会話だった。

 

そんなにたいしたやりとりでもなかったけど、さすがに女優というのはすごいなと思った。特別なんだなと。しかし、それはほんの序の口にすぎなかった。

 

そのカフェバーは数ヵ月で閉店になった。経営上の問題というよりは、役割を終えたという感じだった。もともと長く続けようとは思っていなかったんだろう。

 

ミュージカルの制作という仕事に関しては、そこからが本番だった。ついに劇団と合流したのだ。カフェバーをやっている間も、こんなにいろんな業務をひとりでこなさなきゃいけないのかよと思っていて、社長に人を増やすように交渉もした。まぁ実現はしなかったが。しかし、劇団と合流してからはそんなレベルじゃなかった。

 

劇団員の中にも、同時に裏方を担当している役者が何人かいて、その方たちもだいぶサポートしてくれていたけど、そこでも制作という部門には、私ともうひとりしかいなかったのだ。そこにはあらゆる仕事があった。

 

劇団員の管理、舞台監督や音響・照明・演出部スタッフとのやりとり、主催する全国のテレビ局や新聞社とのやりとり、フューチャリングする芸能人やマネージャーとのやりとり、パンフレット・テレビCMの制作などなど。舞台で使うドライアイスの手配から、テレビ局の局長との打ち合わせまで、大小数えきれないほどの仕事があって、完全にカオスだった。芸能人を後部座席に乗せながら、5分ごとに全然違う領域の人から電話が入ってくるような状態だ。ときには素人の私が、プロデューサー不在の際に劇団員の演技にダメ出ししなければいけないようなこともあった。無理だろこれ・・・。パンクし続けていた。それでもなんとかこなした。常に未知の仕事が目の前にあって刺激され続けていたからできたことだと思う。

 

中でも、芸能人の方々のエネルギッシュさには力をもらっていたと思う。女優Nさんには何度叱られたか分からない。

 

二度目にNさんと会ったのは、プロモーションで地方のテレビ局に行ったときだった。Nさんはその劇団のミュージカルに出演する芸能人枠のひとりだったので、再会することは予想できていた。東京から、Nさんとマネージャーさんと3人で行ったのだが、私はNさんのオーラにやられすぎてまともに自己紹介すらできなかった。とりあえず仕事を終え、帰りにデパートで3人で食事をとることに。

 

店に入る前に、マネージャ-さんから耳打ちされる。

「まだちゃんと挨拶してないでしょ?さっきアレ誰って言われたから、一応ちゃんとね(笑)」

 

確かにそうだった。数ヵ月前に会ってはいたが、そのときの私はカフェバーの受付だったわけだし、しっかり挨拶せねば。焦ったけど、「アレ誰」という言葉に内心笑ってしまった。さっきまで一応一緒に仕事してたのに「アレ誰」ですからね。

 

「申し遅れました。私・・・」

 

店に入ってからちゃんと自己紹介すると、Nさんにはこう返された。

 

「あぁ。なんかずっと一緒にいるから誰なんだろうと思ってたわ」

 

私は苦笑いしか出さなかったが、ちょっと吹き出しそうにはなっていた。

 

そしてその直後に、さっそく洗礼を受けた。

 

店を出て空港に向かうときに、Nさんがマネージャーさんにこう言うのだ。

「あれ?わたしのコートは?」

 

「あ!」

マネージャーさん顔面蒼白。Nさん激怒。

 

さっきの店にコートを置き忘れてきたらしい。しかもコートの中にはめちゃくちゃ高いジュエリーが入っていると。

 

全速力で店に引き返すマネージャーさんの後姿を見送りつつ、あーあ、やっちまったなマネージャーさん・・・と思っていると、Nさんがこう言ってくる。

 

「あなたもやることあるでしょ!」

 

冷静ではあるがキレている。

 

私はすぐに携帯を取り出して、さっきの店の電話番号を調べる。焦ってボタン操作を何度も間違えながら、やっと電話番号を見つける。そして電話する。

 

結果的にコートは無事で、マネージャーさんもギリギリセーフで飛行機に間に合った。

 

飛行機の中でマネージャーさんに、あっけらかんとした表情で言われる。

「今回は私も同行しましたけど、次からはたぶん行けないと思うから、Nをよろしくお願いしますね」

 

えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!

 

 

 

 

つづく

 

人類滅亡後に出現する聖典

 

世界中に蓄積され続けている膨大な量のデータを保存する新技術について。そんな内容の記事がNewsweekに掲載されていた。

 

我々は、写真や動画、文字、音楽など、あらゆるものをデジタル化すれば、鮮度を保ったまま半永久的に保存できると考えている。

 

「アナログはデジタルより劣化しやすい」と当たり前のように考えてしまっていたけど、どうやらそうでもないようだ。

 

ハードドライブ、USBメモリー、フロッピー、CD-ROMなどのデジタル機器。どれも寿命は短い。これはなんとなく分かる。ならばクラウド上に保存ということになるが、サーバーもおよそ5年で交換が必要とのこと。交換を怠ればデータは劣化し、紙に記録していた場合よりはるかに早くアクセス不能になるという。また、そのサーバーが他社に売却されてデータが完全に消去される可能性も充分にある。

 

個人という単位では、気をつけていれば自分の生涯において必要なデータを保存し続けることは可能なのかもしれない。

 

ただ、ここでのテーマは、こういった背景の中で、人類はどうやって膨大なデータを未来世代に残すのか、ということだ。

 

その鍵を握るのが石英ガラス」石英ガラスは、地球上にある最も安定した物質のひとつらしい。

日本でも開発が進んでいて、時間というところで考えると、何億年もの保存に耐え得る性能をもつという。

 

そして、もうひとつの鍵が「DNA」だ。遺伝暗号がぎっしり詰まったDNAの記憶容量は、従来のあらゆる記憶媒体を凌駕する。「DNAの分子コードにデータを記録する技術」と言われても正直ピンとこない。でも、それは実際に開発されていて、親指大の大きさに、700億冊分の原稿を収めることに成功している。

 

このふたつが結びつくのかどうか分からないけど、「時間」「容量」の問題が完全に解決されたとき、人類は全データの半永久的な保存に成功するのかもしれない。

 

なんかロマンを感じますね。

 

地球規模の核戦争や災害で人類が滅亡。何億年後かに生まれる新人類。その新人類は我々と同じように歴史を重ね、あるとき石英ガラスでできたディスクを発掘する。

このオーパーツをめぐり様々な憶測が飛び交う。「これは神器だ」とか、「超古代文明の遺産だ」とか、「宇宙人のテクノロジーだ」とか。正解は「超古代文明」だ。

新人類はこの石英ガラスのディスクを研究し、ついにディスクを読み取る技術の開発に成功する。開発に成功した研究所は、ディスクを読み取っていく様子を、全世界に向けてテレビジョンで生中継するという。

このディスクは、いったいどんな重要なメッセージから始まるのか、全新人類が、固唾を飲んでテレビジョンの画面を見守る。そして、最初に飛び出してきたデータがこれだ。

 

「20××年××月××日。ぼくは、きょう、友だちのたかし君といっしょに、しょうがっこうからかえりました。かえりみちで、たかし君は、きゅうにおなかがいたいと言いだして、走っていったので、ぼくは、しんぱいになりました。たかし君をおいかけて、くさむらに入ってみると、たかし君が、かくれていました。うんちしていました。ぼくは、おうちにかえって、お母さんにそのことを話しました。お母さんは、『それはね、Nogusoっていうんだよ』と言いました。たかし君は、Nogusoをしたということです。おもしろかったです。」

 

全新人類はこの言葉の羅列に圧倒され、地球は静まり返る。しかし、この文章が終わった瞬間、地球は熱狂の渦に飲み込まれる。

新人類が涙を流しながら、声をそろえて叫ぶ。

 

「Noguso!Noguso!Noguso!」

 

 

後に、これは重要度の低いデータがたまたま最初に出現してしまったバグだということが判明し、新人類はNoguso教への入信を免れた。そしてそのディスクの中には、我々人類の知恵、技術、歴史、カルチャーなど様々な情報が、文字・音声・映像によって記録されていて、新人類はさらなる発展を遂げるのだった(笑)

 

 

 

PEACE‼︎

 

最近読んだ本①

最近読んだ本の感想を書こうと思う。

 
1.『教団X』中村文則

教団X

 今までにそんなにたくさんの本を読んできたわけではないけど、その中でベスト5には入る。
 
ずっと気になっていたけど、近くの本屋では売れ切れが続いていた。そして先日、その本屋で予想以上に分厚い『教団X』が私を迎えてくれた。
 
500ページ以上ある長い物語ではあるけど、文体も好みでスラスラと読んでいけた。内容も面白い。人間の内面に渦巻くものと、その集合体としての社会に渦巻くもの。それが幾重にも重なり合ってストーリーは展開する。
 
私は、単なるフィクションも嫌いではない。でも、世界情勢や歴史、経済、科学、学術的な理論などに裏打ちされている物語はやっぱり圧倒的に魅力的だ。
 
村上龍の『五分後の世界』や、『愛と幻想のファシズム』にも、同じような魅力があって大好きだ。
 
『教団X』には、原子・意識・脳・生物・宇宙・神・宗教・戦争・欲望・善悪・トラウマ・解放などなど、ミクロからマクロまで様々な要素があるけど、すべてが無駄なく緩やかに結合していて、奥が深い。さらに、今の日本の水面下で起きているなにやら不穏な動きを少しだけ紐解くような、タイムリーなテーマも入っている。とにかくこれは今の本。今読むべきだと思う。

 

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

映画化もされ話題になっており、「ただの恋愛小説ではない」ということはもともと耳に入っていたが、なるべく先入観なしに読んだつもりだった。

 
でも、やっぱりその仕掛けを探ってしまうというか、変な推理を働かせながら本を読み進めることになってしまった。結果的にまんまと作者の罠にハマることはできたけど、事前情報が皆無だったら、より感動は大きかったと思う。
 
「すぐに読み返したくなる本」という謳い文句もあったけど、そこまではいかなかった。一度で満足。いつかまた読むことはあるかもしれないけど、すぐではない。
 
内容的には、自分がちょうど大学に進学したころの恋愛経験と少し似ているところがあって共感した。
 
高校生のときには純朴でかわいらしい女の子と付き合っていたけど、大学に入ってからすぐに、少し派手めのお嬢様に心を奪われることになった。私にとっては、そのへんの時期が恋愛の通過儀礼(イニシエーション)だったのだと思う。
 
3.『2時間でおさらいできる世界史』祝田秀全

2時間でおさらいできる世界史 (だいわ文庫)

日本史を専攻していた私は、世界史についてあまり知らない。なので最低限の流れを知りたいと思ってこの本に手を伸ばした。それが間違いだった。
 
この本は、「本」としては最低のレベル。とにかく文体がひどい。本来分かりやすくチョイスされているはずの内容が、その書き方のせいでめちゃくちゃ分かりにくくなっている。読んでいてこんなにイライラする本は初めてだ。そのせいで途中で読むのを放棄した。
 
本の帯にはこう書かれている。
「子どもも大人も、受験生もビジネスマンも!これ一冊で流れがつかめる・・・」
 
は? という一言。どういうことかというと、この本では、すべてのセンテンスに、しつこいほどに著者のオヤジギャグレベルの戯言が混ざってくるのだ。しかも、ある世代(著者の世代)の人間にしか分からないギャグ。
 
この本の中からその一例を挙げましょう。
 
「主権国家とは国家の最高権力である主権が、それが、それぞれの国家にあるということ、そしてそれぞれがみな互いの統治領域を認め合う体制のことです。こんな、あたり前田のクラッカーのようなことが、当時は常識ではなかったんですね。」
 
お分かりいただけただろうか。
 
最初の方に出てくる「それが、」もいらなくね?と思うけど、まぁ許せます。でも、「あたり前田のクラッカー」のくだり、いらなくね?
 
しかもですよ、この文章で太字になっている言葉ってなんだと思いますか?
 
「あたり前田のクラッカー」ですよwwwww
 
せめて「主権国家」を太字にしろ!!!
 
こういうトラップが、数ページに一回出現する感じです。そのストレスはすごいもんです。ある意味で未知の体験でした。本当にひどいです。2時間で読める人もいないでしょう。
 
ただ、私にも反省すべき点があることに気づいた。それは、この本のタイトルだ。
 
「2時間で理解する」ではなくて、「2時間でおさらい」なんですよね。この本は、あくまでも世界史がある程度頭に入っている人がサラっと「おさらい」するための本なんだと。この点だけは理解できた。ちなみに、オヤジギャグみたいなのさえなければ、内容的には良いものであるはず。
 
4.『マッキンゼーのエリートはノートに何を書いているのか』大嶋祥誉

マッキンゼーのエリートはノートに何を書いているのか トップコンサルタントの考える技術・書く技術

その名の通り、マッキンゼーのエリートのノート術がテーマ。基本的には、コンサルティングにおける問題解決のためのノート術についてだが、これは他のことにも充分に転用・応用できる内容だった。
 
まず大前提として、何かの文章を書くことになったときや、資料を作成するとき、パソコンに文字を打ち込みながら考えていくのか、ノートに書いて頭を整理してから最終的なアウトプットを作成するのか、という違いがある。この、後者の方のメリットを説得力をもって提示してくれている。
 
まず、実際にペンを握って書くこと。この、手を動かすという行為が、脳みそに刺激を与える。それが思考を効果的に整理するのだ。これが非常に大事だと。
 
この本では、その大前提から、次に実践的に複数のノートを使い分けて最終的な成果、つまり人に内容を分かりやすく伝えるアウトプットの形を作り上げる方法を解説している。
 
これは、コンサルティング業に限らず、ライターにとってもかなり有効なテクニックだと思った。もっと言ってしまえば、例えばラッパーがリリックを書くときや、ブロガーがブログを書くときにも使えるはずだ。問題解決のためではないが、人に伝えるためという意味で。
 
 
 
 
 
最近、本を読むことが多くなった。意識的にそうしている部分もある。今、ライターとして勉強しているのはビジネスに関することが中心だけど、やっぱり今の日本や世界に対する知識を少しでも深めたいという気持ちがある。そこは必ずつながっているからだ。
 
さらに、今の日本や世界を知るためには、トレンドも歴史も知らなければいけない。今の自分は足りなすぎると痛感している。でも、知識よりも重要なのは、自分の考えだと思う。特に今の日本では、自分の考えを持っていないと簡単に流される。だから、現時点で自分の考えがまとまっていなくても、私はこのブログでそれを晒しながら、おもしろおかしく知識を吸収していきたいのだ。
 
 
 
 
PEACE‼︎
 
 

量産型コピーキャット VS オリジナル

今まで、個人が書くブログというものを読む習慣がほとんどなかった私だが、自分がブログを開設することによって、他のブログを読んでみようという気になった。

 

本格的に活字の世界に進出し始めてまだ間もない私がこんなことを言うのは非常に生意気かもしれないけど、素晴らしいなと思える文章もあったし、これは誰でも書けるなと思ってしまう文章もあった。

 

中には、こりゃ害でしかないなと思う記事も・・・。

 

それは、「PVを伸ばす方法」とか、「広告のクリック数を増やす」とか、「バズる記事を書くには」とか、そういう類のテーマの記事だ。

 

これは、私のブログの昨日のアクセス数が2だったから悔しまぎれに申し上げているわけではないということは断言しておこう!

 

ブロガー(プロブロガー?)にもいろいろなタイプの方がいるんだろうけど、広告収入を第一に考える人たちは、当然PVやクリック数を分析していると思う。

 

それを否定するつもりは全くない。いいと思います。でも、PVやクリック数を伸ばすための方法論を公表するというのがよく理解できないのだ。公表するということは、必然的に影響を与えるということであって、それが良い影響だとはちょっと思えない。

 

コンテンツの質の問題について語るならまだしも、多くは効率的に集客するための仕掛けやテクニックに関することだ。

 

私は以前、リスティング広告を扱う業務に携わっていた。クリックされない広告文は問題外だが、いかにクリック数を稼ぐかということよりも、クリックをいかにコンバージョンにつなげるかというのが最も大事だった。クリック数が多くてもコンバージョン率が下がっては意味がない。

 

つまり、クリックしたくなる内容の広告文よりも、コンバージョンまでいきそうな人にクリックさせる広告文の方が魅力的と言える。裏を返せば、コンバージョンまでいかなそうな人にはクリックさせない広告文ということだ。

こうしてアクセスをふるいにかけて、購買意欲が高い人や興味の強い人が網にかかるようなテクニックが求められる。それは、もちろん広告文だけではなくて、検索キーワードの設定の段階で始まっていることではあるけど。

 

これには、私はそれなりのやりがいを感じていた。使用文字の制約がある中で、限られた文字数で、いかに魅力的な広告文を書けるか。しかしながら、ルールが多い分、目的達成のためにある程度マニュアル化されているのも確かだ。

 

一方、ブログは文字数の制限もないに等しいし、スタイルも自由だ。だったら、広告収入を目的としたブログであっても、その自由さの中でどんどんオリジナリティを出していった方が面白いと思う。つまり、既存の方法論なんか真似しないで、コンテンツとしての価値そのもので勝負した方がよっぽどいいんじゃないかと。

 

例えば、PVを伸ばすために、必死に最新のニュースを見つけ出して、それをテーマに記事を書く。確かにアクセスは増えるかもしれないし、満足できるかもしれない。でも、それが広告収入目的のただの安易な手段であるならば、とってつけたような内容のものしか書けないはずだ。質が高いとは言えない。

ただし、新しいものがとにかく大好きで、専門的な知見がある人が書く記事は別だ。それはオリジナルだと思うが。

 

広告収入のためにPVを伸ばす方法論。確かにそれはニーズのあるテーマなのかもしれない。でも、記事を見たブロガーたちがそのやり方を真似すれば、同じようなテーマの、同じようなシルエットの、量産型みたいなブログが生まれていくだけだ。それではつまらなくてしょうがない。

 

私がブログを書いている目的はまったく別のところにあるので、どうでもいいと言えばどうでもいいけど、ブログの一読者という立場をとったときに、やっぱり面白いコンテンツに出会いたいと思う。

 

その面白いコンテンツとは、その人にしか言えないことが書いてある記事、つまりオリジナルだ。

 

量産型コピーキャットの書く記事より、どこぞのおなごの「今日食べたスイーツおいしかったぁ!」の一言の方がオリジナルだ。

 

HIPHOPやラップの業界においても同じようなことが言える。ONE FOR THE MONEYであってもセルアウトではない。それがオリジナルだと思う。

 

どんなに不器用でも、その人にしか言えないことを言っているラッパーはかっこいいと思える。さらにそれで稼いでいればより素晴らしい。逆に、スキルがあってもリリックに中身がなければ魅力は半減するし、稼いでいても「ふ~ん」となる。

 

自分の体験でもいいし、自分の考え方でもいい。間違っていてもいい。コンシャスでもチャラくてもいい。重くても軽くてもいい。とにかく自分の中にあるものをアウトプットしているものこそ価値があると思う。

 

いろいろな目的があるものの、ブログだってひとつの「表現」でしょ。

 

 

PEACE!!