飛ッ石~Hisseki

日常から生まれた筆跡を、飛び石のように置いて歩いていきます。目的地は不明。

ある大物女優との出会いを通して学んだこと⑤

各地で様々なトラブルに見舞われつつも、ミュージカルの全国公演は終盤に差し掛かった。残すは長崎での公演のみだ。

 

少し寂しい感じもしたが、そんなことを言っていられる状況でもなかった。これまでの公演は劇場で行われていたが、長崎での公演は劇場ではなく、テーマパークのなかにあるホールで行われるのだ。つまり準備が大変。音響や照明はもちろんのこと、オケピ(オーケストラピット)や客席も手作りでの設置になる。

 

いくつもの問題が発生していた。特に試行錯誤が必要だったのが「光」と「風」への対策だ。通常の劇場ではこの二つの要素は完全にシャットアウトできる構造だから問題にはならない。映画館などもそうだが、エントランスから入場したあともうひとつ扉がある。

しかし長崎公演では、外界と壁一枚(しかも一部はガラス張り)でしか隔てられていないただのホールが会場だったため、「音」はどうにかなったものの「光」と「風」に悩まされたのだ。ガラスの壁からわずかに入り込んでくる「日光」と、入り口から吹き込む「隙間風」。これに対抗するためには、黒い幕や段ボールなど、完全に原始的な方法で挑むしかなかった。

 

さらに、あくまでもテーマパーク内での公演なので、そのテーマパークの規則が適用されるわけだ。外から必要な道具などを運ぶ経路や時間帯も考えなくてはならない。テーマパーク内にそんなに広い道があるわけもなく、大型トラックがどうやってそのホールにたどり着くかを考えるだけでも一苦労だった。なんかもうパズルみたいなもんだ。

 

準備段階でのいろいろな課題を乗り越え、無事に公演がスタート。もちろんトラブルが発生しないわけがない。

 

いつも通り、私にとっては、お客さんが会場に入って本番が開幕してからが少し落ち着ける時間。客席から少し離れたところで立って舞台を見ていると、いつも照明がピカっと光るタイミングで光っていない。あれ?と思ったが、舞台上ではそのままミュージカルが進行している。すぐに通常の進行に戻ったが、流れを完全に把握している者が見れば違和感がある出だしだった。あとから舞台監督に聞いてみたところ、「照明がつかなかった瞬間、本番を一度ストップして俺がステージに出てお客さんに土下座しようと思った」と言っていた。

 

キャストやスタッフ側の舞台裏でのトラブルもいろいろあったみたいだが、私にももちろん降り注ぐ。

 

これまた難しい問題だが、お客さんのなかにはVIPがいる。席にはSとかAとかあるが、最前列のど真ん中10席ほどは、招待席として空けられている。公演ごとにここの席にVIPを割り振るわけだが、それは私の仕事だ。

 

その日は、直前になって女優Nさんの招待客と、舞監の招待客がぶつかった。招待席の半分ほどはあらかじめ埋まっていて、残りの招待席にどちらの招待客を配置するか考えなくてはいけない。招待客は一人で来ているわけではないので、分断するわけにもいかず、やはりどちらかを選択しなければならない。

少し迷いはしたが、結局はNさんの招待客を優先した。舞監には、申し訳ないけれど譲ってくださいと告げた。

 

本番前。客席を見ていると、招待席のところでなにやらもめている。

「あぁ・・・でた・・・」。そう思いながら最前列へ駆け寄る。舞監の招待客が完全に招待席に座っていて、Nさんの招待客は戸惑っていた。

「お客様、申し訳ございませんがこちらの席は・・・」と丁寧に言った。

返答はこうだった。

「は?なに言ってんのこの人。日本語分からない」

 

「は?」はこっちのセリフだが、グッとこらえてこちらは丁寧に申し上げ続ける。しかし、相手はテコでも動かぬ様子。私が少し語気を強めて詰め寄ったところで、Nさんの招待客がこう言う。

「我々は大丈夫だよ。他に空いている席はあるかい?」

 

申し訳ない気持ちと舞監に対する怒りでいっぱいになる。ただ、自分が中心となってつくり上げた舞台を、ゴリ押ししてでも大事な人に最前列のど真ん中で見せてあげたいという舞監の気持ちは痛いほどよく分かる。結局、私はなんだか切なくなってしまった。

 

Nさんの招待客を空いている席に案内して、お詫びにパンフレットを渡した。

その方は、「大変だね。我々のために取り計らってくれて感謝するよ」と言って丁寧に名刺を渡してくれた。名刺を見て驚いたが、その方はある業界の第一人者で、いわゆる「すごい人」だった。やっぱ器が違うなと思いながら、舞監に対して抱いてしまった怒りについても私は反省した。

 

全国公演は千秋楽を迎えた。すべてが終わった。いろいろなことがありすぎて、本当に全身の力が抜けた感覚だった。

振り返ってみると、様々なことを学んだという実感があったが、なかでもやはりNさんと共有した時間というのは、私の中で最も濃厚な時間だったと思う。

 

最後の公演が終わって、Nさんとの最後の瞬間が訪れた。Nさんをホールの外まで送る。

もうしばらく会うこともないし、もう会えないかもしれない。

 

「本当にお世話になりました」。私はそう言って、Nさんの最後の言葉に少しだけ期待した。

もちろんNさんにとって私は取るに足らない存在。だが、なにか言ってくれるはずだ。

 

「じゃあ、おつかれさま」

 

返答はこれだけだった。

 

Nさんはいつも通り背筋をピンと伸ばして、振り返ることもなく颯爽と立ち去る。

その後ろ姿は、私に何かを語りかけるでもなく。

 

 

 

おわり