飛ッ石~Hisseki

日常から生まれた筆跡を、飛び石のように置いて歩いていきます。目的地は不明。

あてもなく書く理由

三日坊主にはなっていないものの、それに近いと言えるくらい更新されていないブログ。日付を見ると、数列にしたら何か名称がありそうなくらい、きれいに加速度的に更新の間が開いていってるなと。

 

その何か名称がありそうな数列の成立に加担するわけにはいかない。

 

だから、私はあてもなく書いているのだ。

 

これまで、「書くこと」とは切り離せない環境に私はいた。

15歳の頃から、音楽活動を通して「作詞」を続けてきた。本当は「作詞」なんて言葉は使いたくないのだが、活動の内容を少しだけベールに包みつつ、一般的な言い方で伝えたいという理由で、あえて「作詞」という言葉を使う。

「作詞家」なんていう言葉もあるし、「作詞」というと何か特別な能力であるかのようだが、私にとっては特別でもなんでもなく、当たり前のことだった。

自分の体験したこと、自分の感じたこと、自分の考えたことを、詞としてカタチにするという行為を、少年時代からただ続けてきただけのことだ。

 

私の若い頃の詞は、まさに暗号のようなものだった。自分で見返してみても、読解が困難なものばかりだ。恥ずかしすぎるが、その一例を挙げてみよう。

 

千夜一夜のトンネル通り抜ける深夜EXPRESS 煙吐く銀河LS 理屈の原動力 健闘を祈る 戦場のブラックリスト 念頭に置く結論 ケツを見て前方よく見ざる言わざるで着飾るだけの文明社会のWindows

 

こんなわけの分からない言葉の羅列を、よく人様の前で披露できていたなと思う。

確かに、その音楽の特性上、このようなカタチになるのは仕方ない部分もあるのだが、これはちょっとひどい。あくまでも極端な例だということは分かってもらいたいところだ。

 

まぁでも、当時の私にとっては、そんなパズルみたいな言葉の羅列がむしろ魅力的だったわけで、さらに言えば聴いてくれる人もいたわけで、それがアートとして価値が低かったと断言はできない。

だが、自分の経験や周りのアーティストの影響から、やはり「伝える」ということの重要性を知り、私の「作詞」は、より具体的な内容へと進化していった。

 

進化と同時進行して、私の書いた言葉は、言葉以外の価値に変換されるようになっていった。

それはストレートに「お金」になることもあり、誰かの人生に影響を与えるきっかけになることもあった。もちろん、ときにはネガティヴな勘ぐりを生むこともあったが、とにかくそれは「伝える」ということを達成している証明でもあったのだ。

 

ただし、「伝える」ということを第一目標にすると、今度はアート性が失われる可能性がある。アート性とはつまり、自己中心的な発想や、自分のなかだけに渦巻く思想や、ひとりよがりな表現方法のことだ。その音楽においては特にそれが良しとされるところがある。「オリジナル」という言葉が最も当てはまるだろう。

オリジナリティがありつつ、伝わるもの。そのちょうどいいバランスで「作詞」をすることこそ、私の目標になっていったのだ。

 

ライターとしての修行を続けている。この仕事を始めるとき、「自分の書く文章がお金になる」というワクワク感と同時に、自分だけが持つセンスのようなものを失いたくないという気持ちが少しだけあった。

 

ライターという仕事では、とにかく客観的な事実を分かりやすく伝えることが求められる。書いた文章に「お金」という対価が支払われる以上、ある一定の水準を常に求められるのは当然のことだ。もちろん「オリジナル」なんてものは求められない。

 

一方、このブログは誰かに何かを「求められる」ことはなく、自由度は高い。もちろん、一応は読者を想定しているので、やはり分かりやすくあるべきではあるが。

私はこのブログを開設するにあたって、まずは「明確な目的もなくはじめた」というようなことを書いたはずだ。

だが、今はなんとなく分かってきた。ものを書くうえで失いたくない何かを維持すること。それがきっと目的なんだろうと思う。

 

だから、私はあてもなく書いているのだ。

 

 

 

PEACE‼︎