飛ッ石~Hisseki

日常から生まれた筆跡を、飛び石のように置いて歩いていきます。目的地は不明。

完璧にコントロールされた暴走

都内に出るときにいつも乗り換える駅があって、その改札の前には存在感のあるデジタルサイネージが設置されている。

先日、そのデジタルサイネージの前を通り過ぎるとき、画面に「自衛官募集」という文字がドカンと映し出された。この5文字は、まるで意思を持つかのように私の目に飛び込んできた。暑さもあったのだろうが、軽くめまいがした。

もちろん今までも自衛官募集の広告というものを目にする機会は普通にあったわけだが、今の時期にこういうものを見るとやっぱり重みが違う。

しかも、デジタルサイネージに映し出される一般の色鮮やかな広告の連続の中に、この「自衛官募集」という無機質な広告が挟まれるインパクトはなかなかのものだ。

表現しにくいが、「広告」という機能だけではなく、なにか他に強いメッセージを訴えかけているような気さえしてくる。少しゾッとしたのだ。

安保法案をめぐって様々な意見が飛び交っているが、これの本当の意味、本当の狙いがなんなのか、なかなか理解するのは難しい。

なぜなら、「戦争できる国にしたい」とか「戦争できる国にしたくない」というような単純なことではないからだ。そこにくっついてくる様々な要素を考えなければ、正しい判断などできない。

これは、戦後70年の日本のすべてを知り、すべてを語らなくてはならなくなるほど、かなり複雑な問題だと思うのだ。私にはとうてい判断のつかない問題だが、無関心ではいられない。

SEALDsなども登場している。実際はどのようなバックグラウンドを持っている学生たちなのかは分からないし、すでに大人の事情に巻き込まれているかもしれない。安保法案反対デモやカウンターデモがただのプロレスごっこだという見方もある。どこまでがマッチポンプなのか分からない。でも、参加している平成生まれの若い世代の一人ひとりが、何かしら考えて行動していることには違いないのだ。折を見て、国会前抗議行動というものを見学してみたいとも思う。

私自身、政治に詳しいわけでもないし、国際情勢に精通しているわけでもない。しかしながら、興味をもって探ることはできる。

見えてくるのは、やっぱりアメリカというご主人様の存在だ。GHQに押しつけられた憲法を変える。もしくは解釈を変える。それはいいが、その新しい憲法は果たして日本人による日本人のための憲法なのか。そうはならない。結局は憲法の改正さえアメリカの意図なのだと考えると、これはもう戦後レジームからの脱却とか日本の独立とはほど遠い道のりを歩んでいるということになる。

中国の脅威が迫っているとか、日本の領土問題とか、集団的自衛権の行使にはそういう話も絡んでいるんだろうが、それはそれでじゃあ米中共闘路線はなんなの?アメリカは守ってくれるの?という矛盾も生じるわけで、今の本筋はそこだとは思えない。むしろ、日本がアメリカの抱える問題を解決するために利用されるだけなんではないかという疑問を当たり前のようにもってしまう。

単なるアメリカの意向で、アメリカ政府がアメリカ国民の世論に批判されないように、自国民ではなく同盟国日本の自衛隊を戦地に送り込むという目的だけのための動きなんだとしたら、こんなにバカらしいことはない。

戦争に反対とか、徴兵制に反対とか、そういうことではなくて、問題は手段ではなく目的の部分。戦争するんだとしたら、それがなんのための戦争なのかだ。

戦争できる国にする?いや、これは逆なのかもしれないのだ。日本は決して日本のために戦争できない国になるかもしれない。

三島由紀夫は、1970年に市ヶ谷駐屯地で演説した後に割腹したが、その演説の中でこう言っている。

「諸君は永久にだねぇ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ」

45年も前の話だ。これが現実になろうとしている。確かに三島は憲法改正自衛隊の国軍化を訴えている。しかし、それはあくまでも「日本人による日本のための改革」を求めたわけで、「アメリカの軍隊として戦争するための改革」ではないはずだ。

私は人種に対する偏見は特に持っていないし、アメリカも嫌いじゃない。アメリカの音楽も好きだし、アメリカの映画も好きだ。ノリも好きだ。

ただ、本質的にアメリカというものが一体なんなのか、それがはっきり分からないせいで複雑な気持ちになる。もはやアメリカは国家じゃないという話もよく聞く。一部の大資本家や大企業などが国を牛耳っている。さらに言えば、日本の経済を握っているのも彼らだ。自分の目で見たわけではないから、これは憶測に過ぎないのだが、陰謀論のような極端な絵空事でもないのは確かだ。

いわゆる新自由主義、グローバル主義というものについても真剣に考えなければいけない時期に来ていると思う。

ベンチャーに代表されるような日本の先鋭的な企業では「グローバル」というのは最もアツいキーワードのひとつだ。だけど、これが政治の話になってくると違う側面を見せる。日本の文化の色を薄めることなく、むしろ強い原色の日本のカラーをもって世界に展開するというスタンスでなければ、飲み込まれて終わるだけだ。

安保法案だけではなく、その裏では様々な閣議決定がなされ、様々な法案が通っているようだ。ちょっと異常なほどに加速しているように思える。移民問題。人種差別問題。政治家たちはいつだって含みをもたせた難しい言葉で理論武装しているが、それを市民の言葉に翻訳しようと努力している人たちもいる。少し考えれば分かる矛盾。少し疑えば見えてくるふわっとした真実。

少しでいいのだ。決定的な瞬間が来たときに、何も知らなかったと後悔したくはない。それじゃあやっぱりつまらない。

オリンピックというビッグイベントを控えた日本。今の日本があるひとつの方向に向かってなりふりかまわず暴走しかけている気がしてならない。コントロールを失った純粋な暴走ならばまだましなのだが、これは完璧にコントロールされた暴走に違いない。



PEACE‼︎